紛らわしい名前 — ヒノキチオールは「ヒノキ」の成分ではない?
名前に「ヒノキ」を冠する成分ヒノキチオールは、皮肉なことに日本のヒノキにはほとんど含まれていません。なぜ「ヒノキ」の名前が付いたのか、ヒノキ科の中でどこに分布しているのかを整理します。
豆知識シリーズ、第12回。先月、ヒノキチオールの発見の物語を辿りました。今月はそれに続いて、この成分の 紛らわしい名前 の話を少しだけ。
名前のせいで誤解されること
「ヒノキチオールは抗菌作用があるそうですね。だからやっぱり日本のヒノキはすごい木なんですね」——こう言われることが、実は少なくありません。
ところが、これは半分正解で半分誤解。ヒノキチオールという名前は確かに「ヒノキ」を冠していますが、日本のヒノキ(Chamaecyparis obtusa)には、この成分はほとんど含まれていない というのが現実です。
なぜそうなったのか。話は、先月扱った発見史に戻ります。
「最初に取れた木」の名前
1936年、ヒノキチオールが単離されたのは、当時の台湾領で大量に伐採されていた 台湾ヒノキ(Chamaecyparis taiwanensis、別名 ベニヒノキ) の油からでした。野副博士が命名した段階では、「ヒノキの油(hinoki-oil)から取れたチオール」という素直な命名だったわけです。
ところがその後、各種の植物からヒノキチオールを探す研究が進むと、分布の偏りが少しずつ明らかになっていきました。
ヒノキ科のなかでの分布
ヒノキ科は世界に約30属150種ほどあり、いずれも針葉樹です。ヒノキチオールが含まれているかどうかをざっくり整理すると、以下のような姿になります。
- 台湾ヒノキ(Chamaecyparis taiwanensis):含む(発見の原木)
- 日本のヒノキ(Chamaecyparis obtusa):ほぼ含まない
- サワラ(Chamaecyparis pisifera):ほぼ含まない
- クロベ・ネズコ(Thuja standishii):ごく微量
- 青森ヒバ/ヒノキアスナロ(Thujopsis dolabrata var. hondae):含む
- 米ヒバ・アラスカヒノキ(Callitropsis nootkatensis):含む
- 米杉・ウェスタンレッドシダー(Thuja plicata):少量含む
- インセンス・シーダー(Calocedrus decurrens):含む
つまり「ヒノキ科の一部の樹種だけが、進化の過程で獲得した、ニッチな自衛物質」というのが、ヒノキチオールの本当の姿です。日本のヒノキ・サワラに含まれないという事実は、「ヒノキだから含む」というシンプルなロジックを許してくれません。
「日本国内で安定供給できるヒノキチオール樹種」
戦後、台湾ヒノキの新規伐採はほぼ停止し、輸入される米ヒバ・米杉も含有量では青森ヒバに劣る、という状況のなかで、日本国内で安定的に供給できるヒノキチオール樹種 として、青森ヒバが事実上の唯一の選択肢となっていきました。
このことが、青森ヒバの市場価値を支える背景のひとつにもなっています。「ヒノキ」を名乗りながら国産ヒノキには含まれず、けれど青森のヒバには確実に含まれている、という入り組んだ事情。商品としての青森ヒバを語るときに、この事情を理解しておくと、価格や希少性の説明が腑に落ちやすくなります。
名前を変えればいいのに?
「だったら名前を変えればいいのに」と思われるかもしれません。実際、化学界では「β-ツヤプリシン(β-thujaplicin)」という、より植物学的に正確な別名も並行して使われています(化学的にはβ-ヒドロキシ-イソプロピル-トロポン)。
ただ、研究者の世界でも、産業界でも、薬機法・食品衛生法上の名簿でも、すでに ヒノキチオール という名前が広く定着してしまっており、後から変えるのは現実的ではなくなっています。1989年に厚生省(現・厚生労働省)告示の既存添加物名簿に No.206「ヒノキチオール(抽出物)」 として収載された時点で、行政名としても固定化されました。
名前は紛らわしいけれど、それは化学史の偶然の結果。「ヒノキチオールを多く含む木は、ヒノキ科のごく一部であって、日本のヒノキはそれに含まれない」という事実だけ覚えておくと、ヒバの商品を選ぶときの判断が、ぐっと正確になります。
来月は、このヒノキチオールが「食品を扱える成分」として法的に認められている話を、もう少し詳しく見ていきます。
— Hiba Kitchen